東洋のマチュピチュ(竹田城ではなく)
俄か廃墟マニアの私は軍艦島に上陸してみたかったのです。
しかし日数やら予算やらで断念。
軍艦島に似てなくもない、と夫が探してくれた場所。
それがここ、別子銅山跡でした。バスツアーの最終目的地です。
東洋(日本)のマチュピチュと呼ばれている場所は
いくつかあるようですが、ここもその一つ。
インカの祭壇のような、この場所の説明は後にして、
2時間弱かな。車中、みなさん寝てらっしゃいました。(私も)
バスはどんどん山中へ。雨が降ったり止んだり…
銅山跡は今は「マイントピア別子」と言う観光施設になっています。
施設は2つの場所に分かれていて、こちらは端出場(はでば)ゾーン。
このSL型のトロッコ列車に乗って。
実際、ここには鉄道が敷かれていたそうです。
日本最初の山岳鉱山鉄道だとか。
一か月前の事なので記憶があやふやです。
トロッコをどこで降りたのか…
坑道へは歩いて入った…
私、薄暗い場所の撮影が苦手で、撮った写真はことごとくボツ。
これは大型のジオラマです。
江戸時代の初めに銅の鉱脈が発見されて、採掘が始まったそうです。
当時の労働は過酷の一言。
ここまでは江戸時代の採掘場。
次は明治以降の労働の歴史遺産、東平(とうなる)ゾーンへ。
本当に遠なる、わ。。。
大型バスの通れない細い山道を行くので、
マイクロバス2台に乗り換えて出発。30分ほど行きます。
到着。現地のガイドさんのセリフ
「皆さんは東洋のマチュピチュを見に来られた。これから、ご覧に入れましょう」
雨に濡れた石段を200段下ります。怖かった。(この写真の左側に)
それが、この記事の最初の写真です。
ここは貯鉱庫の跡なのです。
採掘された銅を集め、分別、山の麓(港へ運ぶ)ための
集積場ですね。(私のこの説明、合ってるんだろうか?)
そのためのロープウェイもあったそうです。
山からは銅を、麓からは生活物資を運ぶための。
あ、この山の中に4000人もの人々が生活していたそうです。
鉱山に従事する人々の住居があり、学校があり、娯楽施設があり、
そんな環境も軍艦島に似ていますね。
銅山が廃坑になり、人々も去り
今は樹々が生い茂る森に還った場所。
この別子銅山はS友鉱業が運営してたそうで、
現地のガイドのオッサン、いえ、おじさんが徹頭徹尾
最初から最後までS友を賛美しまくり…
「私、S友とは何の関係もありません」と言ってたけど、本当かな。
このおじさん、赤穂のおじさん、土庄港のおばさん等
ガイドの皆さん、どなたもユニークな方ばかりでした。
ツアー・ガイドさんが栗林公園の前をバスで通過した時に
チラッと洩らしたガイドの悲哀も印象的で。
一緒に旅行された方々、現地の皆さん、どうもお疲れ様でした。