蜃気楼のように

ヤフブ時代の遺留品

「Keiko」 と 「もう頬づえはつかない」

「ケイコ と まり子」



以前にも書いた事があるのですが、私のこのブログのタイトルは
桃井かおりさんの歌「蜃気楼のように」から採っています。
20代半ばの頃、私と同世代のこの女優が好きで
色んな物を集めたり、CMをやってたカティサークを飲んだり、
出演してたラジオ番組を毎週聴いてたり。
(NHKラジオの「若いこだま」と言うタイトルなのです。
「このダサいタイトルがたまらん」と同番組のDJの一人だった
甲斐よしひろが褒め称えてました)

これは写真集と某女性誌の切り抜き記事。
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若い女性に圧倒的な人気のあった桃井かおりが、当時ベストセラーになった
身延典子の「もう頬づえはつかない」のヒロインを演じると言うので
喜び勇んで観に行ったのです。

「もう頬づえはつかない」のパンフと「Keiko」のパンフ。
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どちらも「ATG映画の全貌」より
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東宝制作のパンフレット「もう頬づえはつかない」
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キネマ旬報60周年記念号より「Keiko」
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さて本題。私、この時、時間を間違えまして席に着いて始まったのは同時上映作の
「Keiko」の方でした。当時、映画館は入れ替え制ではなく一日中いられました。
しかし館内は極めて前評判の高い「頬づえ」を見るための女性客であふれ、立ち見も出ていました。
聞いたことも無い「Keiko」なんて観たくない。「頬づえ」だけを観たいのに。
でも今、席を立ったらもう座れないかも。それで仕方なく「Keiko」も観ることにしたのです。
京都で一人暮らししているOLの話らしいけど…

2時間後、私、心臓をぶち抜かれていました。「Keiko」に。
思い出した。先に観に行った友人の中に「もう一本の方がおもしろかった」と言っていた人がいたのを。
ただのへそ曲がりだと思って気にも留めなかったけど、彼女の眼は正しかった。
「ああ、もう一回観たい…」 「頬づえ」は右から左に抜けて行ったのです。

「空回りしてるな、頬づえ…」 等身大の女子大生を描く、この意図があざとく空回りしている。
「Keiko」の恐ろしいほどの自然体の前で。
煙草大好き女優の桃井かおりが映画の中でも、平然と喫煙女子大生を演じてる。
それが自然とは、もはや私には映らない。「Keiko」のヒロイン、ケイコが初デートした相手の男と
自分のアパートの部屋でベッドインした後、男の差し出す煙草にむせる(会社では吸ってるのに)
シーンに「分かる!」と納得してしまった。この映画の翌年デビューしたM・Sが「ぶりっ子」と
批判されながらもスーパー・アイドルに成長していったように、この方が女性は行き易いのだ。
「今の女子大生って男と寝るために大学に行ってるのか」 これが「頬づえ」の感想。
「Keiko」もまさに「今のOLは男と寝るために」なのに、そう感じなかったのは、あまりにも
ケイコが自分だから。ここまで自分を映し出されたら、強い決意もなく生きてゆく女に
「しっかりしろ。旅立て!」なんて叱咤する必要ないわ。心の底に持ってるわ。そんな物。

ネットなどで「Keiko」評を読むと、みんなラストシーンを否定的に見ているのに驚く。
当時、大阪に「全大阪映画サークル協議会」と言う組織があって、映画のチケットなどを
割安で販売してくれたりしていて、そこの会誌に、主演の若芝順子と きたむらあきこ の
インタビュー記事が載っていて、「あのラストシーンは単に、役者が足りなかったので
あの俳優に二役をやってもらった」みたいなことが書かれていた。私はこの記事を支持する。
(何の役かは見てもらえば分かります) あれを悪意に取ると作品全体が悪意に満ちたものに
なってしまうではないの。悪意なんか無いでしょ、あの映画には。

「頬づえ」のパンフに某女性映画評論家が「頬づえ」のヒロイン、まり子を
まり子はあなただ。と賛美していた。そう、まり子はあなた。 そして、私はケイコだ。

「Keiko」は今も私のベストシ・ネマなのです。